治験文書の翻訳・ローカライゼーションにAIをどれだけ導入できるかーその①参加者・HCP・社内資料など読者層に分けたワークフローの設計

はじめに
人工知能(AI)はライフサイエンス分野における翻訳ワークフローを変革していますが、治験にはスピードだけでなく、患者の安全の確保、正確かつ明確なICFの実現、厳格なレビュー・プロセスの構築・維持、データプライバシーの確保、そして治験実施計画書の修正や参加者要綱の更新といった頻繁に変更される文書の管理能力が求められます。スピードも重要ですが、それ以上に「記録の追跡性(トレーサビリティ)」と「品質」が重視されます。
現時点で最も効果的なアプローチは、「AIか人か」の二者択一ではなく、適切に統制されたハイブリッドモデルです。AIはドラフト作成の迅速化、用語統一、品質チェックの実施に貢献します。一方で、薬事・クリニカルオペレーション・法務部門の専門家やトレーニングを受けた翻訳者が、最終的な意味や承認に責任を持ちます。
本記事では、治験実施機関などの団体の翻訳・ローカライゼーションワークフローにおけるAIの役割について解説します。
特に、下記の内容に焦点を当てています。
• 現在のAI翻訳がどこまで対応しているか
• AIが得意な分野と不得意な分野
• 翻訳方針を決める際に影響を与える規制上および品質上の要件
• 実践的なガバナンスの枠組みと導入ロードマップ
• 治験文書のローカライゼーション・ソリューションにおいて重視すべきポイント
翻訳およびローカライゼーションにおけるAIの最新動向
多くの企業のローカライゼーションプロジェクトでは、すでに翻訳メモリ(TM)やAI、ニューラル機械翻訳(NMT)などを用いた何らかの自動化手法が導入されています。最近の大きな変化は、大規模言語モデル(LLM)を活用したワークフローの登場です。このようなワークフローは、原稿のドラフト作成、平易な言葉への書き換え、エラー検出、レビュー作業の迅速化といったタスクを支援しています。⁵⁻⁶

*翻訳メモリ(Translation Memory: TM):過去に翻訳した原文とその対訳をセットでデータベース化し、再利用する仕組みです。
新しい翻訳を行う際、同じ文章や類似した表現が見つかると、過去の訳文が自動的に提案されます。これにより、重複部分の翻訳工数を削減できるため、翻訳コストの削減や作業スピードの向上につながります。また、ブランドメッセージや過去のコンテンツと表現を統一できるため、一貫性のある高品質な翻訳を実現できます。弊社の場合、この翻訳メモリは弊社のサーバーの安全なセキュリティでお客様ごとに管理されています。
翻訳メモリは、会社の規模には関係なく、多言語コンテンツを多く扱う企業で幅広く利用され、企業によっては、翻訳メモリを活用して翻訳コストを50%以上削減した実績もあります。
さらに、翻訳メモリは継続的にシステム内へ蓄積されるため、企業の翻訳資産として活用できます。過去の翻訳実績を将来のプロジェクトや他のプロジェクトへ引き継ぐことができ、長期的な効率化と品質向上に貢献します。
詳細はこちらのビデオで確認いただけます。
規制、倫理、品質に関する期待
治験文書のローカライゼーションにAIを取り入れる際は、運用するうえで従うべき規制の枠組みを理解することが不可欠です。治験関連文書は通常のコンテンツとは異なり、参加者の保護、科学的な健全性の確保、社会的信頼の維持を目的とした規制フレームワークのもとで管理されています。これらの規制要件は、単に「何を翻訳するか」だけでなく、「どのように翻訳するか」「誰がレビューするか」「どのような証跡を残すか」にまで影響を及ぼします。AIを活用したワークフローが満たすべき基準を定義する4つの重要分野は以下の通りです。
1. ICFは分かりやすくなければならない
GCP(医薬品や医療機器の承認申請のための治験の実施基準)は、参加者に提供される情報(書面によるICFを含む)には、分かりやすく、できるだけ専門的ではない表現を使用するべきだと強調しています。²
AI活用の重要ポイント:初稿の作成にAIを用いることは概ね許容されていますが、最終的な意味内容や読みやすさについては、十分な専門知識を持つ人による確認が必須です。7
2. 透明性と平易な言葉による説明の義務
EU臨床試験規則(EU No 536/2014)は、治験の透明性をさらに高めており、一般の人にも分かりやすい結果の要約(一般向け要約)を求めています。このガイダンスでは、読みやすさや治験参加者重視の記述が強調されています。¹
AI活用の重要ポイント:AIは一般向け要約のドラフト作成やローカライゼーションを迅速化できますが、成果物は承認済み治験文書と照合したうえで、平易性、文化的適合性、規制に対応した表現について人間が必ず確認し、公開前にレビューしなければなりません。
3. 監査可能性と電子記録の要件
翻訳やローカライゼーションのワークフローで規制対象文書や管理文書を取り扱う場合、組織は監査証跡、アクセス制御、修正履歴の保存など、電子記録要件に準拠したプロセスを整えることが一般的です。³
AI活用の重要ポイント:組織ごとにワークフロー管理ルールは異なりますが、トレーサビリティの欠如による査察リスクを軽減するためにも、バージョン履歴、承認者情報、タイムスタンプなどを記録できる監査可能なワークフロー内でのみAIを活用すべきです。
4. 翻訳品質管理の標準
ISO規格は翻訳品質プロセスの基準を定めるうえで指針となります。ISO 17100は翻訳サービスの要件を、ISO 18587は人による機械翻訳のフルポストエディット(機械翻訳の訳文を人が確認、修正し、人手翻訳と同等の品質に仕上げる作業)の要件を定めています。治験関連分野では、これらの規格によって、担当者の役割や資格、レビュー手順が明確化されます。⁴⁻⁸
AI活用の重要ポイント:AIを使用する場合、組織はポストエディットや品質管理を標準化し、レビュアーの役割・資格・受け入れ基準を明記する必要があります。これにより、AI翻訳を品質システムの中で測定可能、再現可能、かつ説明可能なプロセスとして維持できます。
治験におけるコンテンツの種類とリスク階層
すべてのコンテンツが同じリスクを持つわけではありません。治験文書の翻訳において、AIには強みと弱みがあるため、責任あるAIの利用には厳格なガードレールやポリシーが必要です。実践的なAIポリシーを策定するためには、まずコンテンツを「参加者の安全への影響」「規制当局の期待」「運用上のリスク」に基づいて分類することが重要です⁴⁻⁵以下の表は、リスクに基づくフレームワークの一例です。

*リスク階層:原文のリスク区分に応じて分類
ここまで、AIの得意不得意分野、各文書の翻訳規制、コンテンツタイプ別のAI使用リスクと推奨されるワークフローについてまとめました。
次の記事では「治験文書の翻訳・ローカライゼーションにAIをどれだけ導入できるかーその②」として、治験におけるAI翻訳の主なリスク、AI翻訳の実践的なガバナンスモデルについて解説します。
<参照元>
European Commission. (2018, February 22). Summaries of Clinical Trial Results for Laypersons.
International Council for Harmonisation of Technical Requirements for Pharmaceuticals for Human Use. (2016, November 9). Integrated addendum to ICH E6(R1): Guideline for good clinical practice E6(R2).
U.S. Food and Drug Administration. (2003, August). Guidance for industry: Part 11, electronic records; electronic signatures — scope and application.
International Organization for Standardization. (2016). ISO 13485:2016: Medical devices — Quality management systems — Requirements for regulatory purposes.
Guerreiro, Nuno M. Alves, Duarte M. Waldendorf, Jonas. Haddow, Barry. Birch, Alexandra. Colombo, Pierre. Martins, André F. T. (2023). Hallucinations in Large Multilingual Translation Models. Transactions of the Association for Computational Linguistics (2023) 11. 1500–1517.
Wenhao Zhu, Hongyi Liu, Qingxiu Dong, Jingjing Xu, Shujian Huang, Lingpeng Kong, Jiajun Chen, and Lei Li. (2024). Multilingual Machine Translation with Large Language Models: Empirical Results and Analysis. Findings of NAACL 2024, pages 2765–2781.
U.S. Food and Drug Administration. (2023, August). Informed consent: Guidance for IRBs, clinical investigators, and sponsors.
International Organization for Standardization. (2015). ISO 17100:2015: Translation services — Requirements for translation services.
トランスパーフェクトについて
弊社は翻訳サービス・AIソリューションを提供する翻訳会社大手であり、NYに本社、また東京・大阪を含め6大陸に渡って150以上の都市に支店を置いています。
翻訳・ローカライゼーションにおいて30年以上の実績があり、ライフサイエンス業界への高い専門性を評価していただき、多くの製薬会社、バイオテクノロジー企業、CRO、医療機関の皆様にご愛顧いただいております。
品質と顧客サービスに徹底的にこだわるトランスパーフェクトは、ISO 9001、ISO 17100、ISO18587、ISO 13485およびISO14971への完全準拠の認証も取得しています。詳細は弊社Webサイト(www.transperfect.com/ja/home)をご覧ください。
主な事業内容:翻訳・通訳/Webサイト・ソフトウェアローカライゼーション/翻訳管理システム(TMS)/多言語デジタルマーケティング/eラーニング開発とローカライゼーション/動画の字幕と吹替/機械学習用データのアノテーション